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フランス北東部の第一次世界大戦の舞台で歴史が息づく

第一次世界大戦終結100周年まであと1年ですが、追悼式典はすでに始まっています。イギリス人ジャーナリストのリザ・フォアマンが時をさかのぼり、フランス北東部の歴史的戦場を巡ります。

フランス・ムーズ地方――ここで三日間にわたって塹壕生活を体験する機会は滅多にありません。11月の退役軍人デーの週末、メーズとロレーヌ地域でアメリカ軍の参戦史を学ぶために招待されたので、すぐに受け入れました。

旅のハイライトは、11月11日のメーズ=アルゴンヌ米国墓地での最初の灯火式でした。ここにはメーズ=アルゴンヌ攻勢(米軍史上最大規模、1918年の休戦まで47日間続いた)で犠牲となった1万4千人以上の米兵が埋葬されています。

北東フランスの食文化や観光名所、プール(旅行中でも毎日泳ぎたい私にとって重要)にも興味がありました。フランスに滞在経験は豊富ですが、パリから電車で1時間余りのこの地域は初訪問でした。

フランス北東部の第一次世界大戦の舞台で歴史が息づく

ロンドンからメスへ

ロンドン(ユーロスター)とパリ(TGV)を合わせて約4時間で、ロレーヌ州の首都メスに到着。ネオロマネスク様式の駅舎は、ドイツ人建築家ユルゲン・クローガーが20世紀初頭に設計したもので、当時はオットー・フォン・ビスマルクの支配下にありました(メスは第一次世界大戦終結までドイツ支配下にありました)。この街は建築と歴史が豊かで、ユネスコ世界遺産への登録が期待されています。

まず訪れたのは、フランス・日本合作チーム(ジャン・ド・ガスティーヌとバン・シゲル)設計のポンピドゥー・メス・センター。今回の特別展は『Japan-ness 1945年以降の日本建築と都市計画』で、来場した日本のトップ建築家らが講演も行いました。

続いて、メス大聖堂(サン・ステファン)でマルク・シャガールが手掛けたステンドグラスを鑑賞。壮大な内部に響くオルガンの音色が観光客の心を打ちました。旧市壁や石畳の通りを散策し、骨董品店や地元産品が並ぶ屋根付き市場にも足を運びました。

夜はヴェルダンのリュ・ジャルダン・デュ・メスに宿泊。運河を望む広々としたスイートはリノベーションが施され、バスタブは巨大で、近くのアクアドローム・ヴェルダンのプールに入らずにはいられませんでした。プールは古い正面壁にモダンなガラス構造が組み合わさったデザインです。

豪華な朝食ビュッフェの後は、伝統的なブラクイエ糖菓子工場へ。製造機械や廃止された道具が展示されたミュージアムを見学し、店頭で様々なアーモンド菓子を味わった後、本格的な戦場巡りへと向かいました。

メーズ観光局提供の、第一次世界大戦遺跡動画。

戦場へ踏み込む

雨と泥に覆われたブット・ド・ヴォケで、かつて戦争で焼失した村の残骸を見学。倒れたフランス兵への慰霊碑を拝んだ後、地下塹壕へ。90メートルもの深さの塹壕には、フランス・ドイツ兵の写真が残されていました。

ランチは、同名ミュージアム併設のレストラン『ロマーニュ 14-18』へ。退役軍人デーを記念し、来訪者の多くが兵士の制服で参加していました。ミュージアムは、所有者ジャン=ポール・ド・ヴリースがかつて戦場で掘り出した20万点以上の遺物を展示。米兵の遺体や家族への手紙、スパード、棺、手榴弾などが展示されています。

昼食後は、ペンシルベニア州出身兵士が解放したヴァレンヌ=アン=アルゴンヌのペンシルベニア記念碑へ向かいました。この町は、フランス革命時にルイ16世とマリー・アントワネットが乞食に装って逃亡を図った場所としても知られています。

フランス北東部の第一次世界大戦の舞台で歴史が息づく フランス北東部の第一次世界大戦の舞台で歴史が息づく

薄暗くなると、メーズ=アルゴンヌ米国墓地で感動的な灯火式が執り行われました。かつては約2万8千人の米兵が埋葬され、現在は多くが遺骨返還されています。夜になると、白い大理石の十字架が立つ3千の墓に3千本のキャンドルが灯され、雨の中で兵士の名前がスピーカー越しに読み上げられました。雨で泥に変わった墓地は、次の世紀祭(2018年)に向けた大規模式典の準備が進められています。

その後、暗い道をバスで移動し、月の庭園とムーズ川に囲まれた家族経営のホステラリー・デュ・シャトー・デ・モンテロンに宿泊。地元産野菜を使った料理とチョコレートデザート、チーズプレートで締めくくるディナーを楽しみました。

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翌朝は雨の中、次の戦跡へ向かい、まずはドゥーモン霊廟を訪れました。13万人以上の無名兵士の骨と頭蓋が埋められ、既知の兵士は出身村ごとに棺が並べられています。

計画していたヴェルダン本戦場の見学は、寒さを避けるためにキャンセルし、代わりに『メモリアル・ヴェルダン』へ。第一次世界大戦で最も長く血なまぐさい戦い、300日間続いたヴェルダンの戦いを紹介する博物館です。714,000人以上の死傷者(フランス・ドイツ双方ほぼ半々)を記録しています。館内には2,000点以上の旗、砲兵、制服、映像資料が展示され、エジプト様式の霊廟や戦場の眺望が雨の中で広がります。

塹壕での体験を終えロンドンへ戻ると、現代の問題は小さく思え、二度の世界大戦で米軍に救われたイギリスの母への感謝の気持ちが一層深まりました。

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