失われたシリアへの想い—忘れられない旅の記憶
序章:シリアへの思い出
Fathom創設者パヴィア・ロサティが語る、かつて訪れたシリアの記憶。
旅行サイトを運営していると、よく「これまでで一番良かった場所は?」と聞かれます。正直な答えは「シリア」ですが、今は言いにくい場所です。
2009年6月に訪れた当時、シリアはすでに問題を抱えていましたが、私にとっては驚きと感動に満ちた国でした。現在は内戦が激化し、十字架にかけられたような残虐行為やサリン攻撃が報じられ、報道は衝撃的です。政治的な全容は理解しきれませんが、世界の有識者ですら解決策を見いだせていないのが現実です。
それでも、やがて戦争は終わり、シリアは再建されると信じています。だが、私が体験したシリアは永遠に失われました。
旅の始まり
夫ベンと親友ジュリーと共に、レバノン・ベイルートに住むジュリーの家族を訪ねた際、近隣の国への小旅行を計画。最初はヨルダンを考えていましたが、ケンブリッジ大学の友人がシリアを勧めました。レバノンの親戚や中東問題の専門家は、政権の抑圧を警告しつつも「シリアではどこへ行っても監視される」「観光客やジャーナリストが姿を消す」などと注意を促しました。
ダマスカスとアレッポ
運転手を雇いダマスカスへ向かい、スークやモスクを散策し、絶品の料理を堪能しました。宿はHotel Talisman Al‑Ameenに泊まりました(執筆時点で公式サイトはまだ稼働中)。その後、北へ向かいアレッポへ。途中、ほとんど人影のない田舎道や廃墟となったローマ遺跡を通過しました。
アレッポでは、Jdaydeh地区にある高級ホテルYasmeen d'Alepを経営する兄弟と出会い、書籍・食文化・政治について語り合いました。彼らは「ユダヤ人・アラブ・キリスト教徒、何がどうでもいい。争いは愚かで、シリア人は疲れ切っている」と語ります。
ほとんどの出会いは男性でしたが、女性はベールに隠れ、距離がありました。
言葉の壁を超えて
アラビア語は話せませんが、笑顔とジェスチャーで通じました。タクシー運転手は「Barak!」と大きく笑い、ウェイターは「Hillary Clinton!」と親指を立ててくれました。スパイス店の少年は手話で写真撮影を頼み、配達員と一緒にランチタイムにチックピーヨーグルトスープを堪能しました。
芸術と手仕事の宝庫
シリアの織物、建築、宝石、木工、刺繍はすべてが圧巻でした。私はできるだけ多くの品をスーツケースに詰め込み、今でも自宅でそれらに囲まれています。友人の祖父母が20世紀初頭にシリアから逃れたという背景を持つ人へのタオルや、シルクのクッション、手描きのカラフルなグラス、真珠母のテーブルなどが思い出です。
ユニークなパン工房
ベーカリーの男性たちが見せてくれた、まるでルーベン・ゴールドバーグのようなパン製造工程は圧巻でした。麺種がレバーやプーリーで運ばれ、熱々のパンが窓口から直接販売される様子を撮影し、1時間ほど語り合いました。最後に、彼らは熱いパンを袋に入れてくれ、代金は受け取りませんでした。
広告のない街並み
シリアの街は商業主義がほとんどなく、道路沿いに看板はなく、スークでも包装は見られませんでした。スパイスやオリーブオイル石鹸が色とりどりに並ぶ光景は、まさに視覚的なバカンスでした。
公共の広告は四つだけ。国営携帯電話会社の男女の笑顔の写真、そしてバッシャール・アル=アサド大統領とヒズボラ指導者ハサン・ナスララのポスターです。
アサド政権とその背景
バッシャール・アル=アサドは、ロンドンで眼科医として働いていたが、1994年に兄が事故死し、2000年に父の後を継いで大統領に就任しました。妻アスマはロンドン出身で、フランス文学とコンピュータ科学を学びました。就任初年度に「ダマスカス・スプリング」と呼ばれる改革期がありましたが、すぐに権威主義的な体制により弾圧されました。
帰路と境界線の体験
クラック・デ・シェヴァリエ城(ユネスコ世界遺産)を訪れた後、ホムスの国境で出国手続きを行いました。運転手はシリアの国境警備官に激怒し、「恥ずかしい」と嘆きました。AK‑47を携えた警官10名がレンジローバーに乗り込み、手錠をはめられた男性が同乗する光景を目撃しました。ジュリーとベンは私の撮影行為を止め、危険だと注意しました。
この体験がどれほど理解できたかはわかりませんが、1週間の滞在が私に与えた感動は今でも忘れられません。
結び
「一番良い場所は?」と聞かれると、答えは「アルゼンチン北西部のサルタ」や「スリランカ」になることが多いです。シリアは心の奥底に残る、言葉にできないほど美しい記憶です。
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