カメハメハ1世:ハラワと結びつく自信あるリーダー(パート2)
諸島統一(ハワイの牧畜遺産に関する注記)
カメハメハは、生まれた時点ですでに続いていたマウイとの長年の対立を受け継いでいた。1791年以降、マウイの首長カヘキリはカメハメハの支配に激しく異議を唱えた。ある日、東海岸のラウパホエホエで平和を保つ任務にあったカメハメハは、カヘキリがコハラに軍を派遣し新たな戦争を始めたという噂を聞く。マウイの戦士たちはハラワ川河口のハプウに陣営を築き、カメハメハの農場を略奪していた。
カメハメハは冷静かつ決意を持って対処した。マウイ軍に気付かれないよう、ラウパホエホエからハラワへ直接帆走するのではなく、夜闇に乗じて艦隊をカワイハエへ向け、ハラワを迂回した。カワイハエでは陸路から戦士を集め、ゆっくりと兵を整えた。伝えられるところによれば、カメハメハは約2千人の軍勢を編成したという。常に側近として支えていたのは戦術指導者のケクハウピオである。
十分な準備が整ったと判断したカメハメハは、再びコハラへ向かったが、今回は海岸を避けて山側(マウカ)から海側(マカイ)へ、ハラワ高原を通り、現在のジップライン付近を抜けてハプウへ下った。史学者スティーブン・L・デシャは1922年に次のように記している。「カメハメハはハラワ高原を通って軍を進めた。海岸沿いに動けばマウイ側がすぐに情報を得て逃げ出す恐れがあったからだ。」
マウイ首長はカメハメハの策略に気付いたものの、ハプウの危険な崖を下りて自軍と向き合うことを選んだ。自軍の勇敢さに自信を持っていたが、カメハメハの本拠地である高原での戦いは避けられなかった。戦闘は高原から海岸へと徐々に移り、カメハメハが指揮を執りながら二日間続いた。デシャは「カメハメハとその戦術指導者ケクハウピオが戦いの背骨を折り、最終的にマウイ首長が捕らえられた」と述べている。
戦闘後、カメハメハは北コハラで休息し、ケクハウピオはハラワ高原を戻りながらワイメアへ向かい、次なる戦争に備えて新たな軍勢を整えた。1795年にカメハメハはマウイとオアフを完全に支配し、1810年にはカウアイが彼の主権を認めた。最終統一後、カメハメハがハラワに戻った記録は残っておらず、1819年にカイルア=コナで没した。
カメハメハとジョン・パーマー・パーカー
1809年頃、ニューイングランド出身の若いアメリカ人が中国へ向かう途中ハワイで補給のため寄港した際、船を降りて北コハラにたどり着いた。彼の名はジョン・パーマー・パーカー、当時約19歳であった。パーカーはカメハメハと出会い、王のタロイモ畑を見学したが、すぐに再び航海に出て新たな冒険を求めた。
海外で取得した銃と射撃の腕前を評価されたカメハメハは、放牧化した野牛が森林や農地を荒らすという深刻な問題を抱えていた当時、パーカーに野牛の駆除を依頼した。その見返りに、ハラワ東部のワイアプカにある北コハラの土地を与えた。パーカーはその土地でカメハメハのタロイモ畑を管理し、王族の子孫と結婚した上で、後にパーカー牧場を創設した。




