その場しのぎの登山家
足が重いのに最後の数歩を踏み出し、揺れる祈願旗の前に立った。白い小さな山頂で薄い山の空気を胸いっぱいに吸い込むと、朝日がパッチワークのような雲間から差し込み、遠く下には茶色く影のように広がる山脈が見渡せた。笑顔を作ったものの、頬は無表情で、胸の中は波乱に満ちていた。
ガイドのオツァルと登頂への期待
若いラダック人ガイドのオツァルはテニスシューズで跳ね回り、成功した登頂に大はしゃぎだった。氷斧とプラスチック製のコフラッハブーツ、クランポンを装着した私と、作り置きの杖とトラックスーツ、テニスシューズだけのオツァル――そんな対照的な装備でも、インド・ヒマラヤの標高6,153メートルの山頂に立てた喜びは抑えきれなかった。
北側にはインダス川の緑豊かな谷、東側にはK2を含む高峰群、そして西側は氷のコーニスが崖を覆っていた。オツァルは、かつてこの斜面でクライマーが落下死した話を語り、私は「山から落ちることは不可能だ」と語ったケルアックの言葉を思い出したが、実際には落下は起こり得ると感じ、プラトーへと後退した。
ストック・カングリ:‘ベビートレック’の罠
レヒ市近郊にそびえるストック・カングリは、インドの『リトルチベット』と呼ばれる地域に位置し、標高6,000メートルの中で最も登りやすい山と謳われている。現地ガイドは「ベビートレック」と宣伝するが、6000メートルの山が『ベビー』であるはずがない。ラダックのトレッキングはネパールや南米に比べてまだ未整備で、レヒの小さなショップが「明日出発のストック遠征、あと2〜3名」などと募集し、数頭の馬と現地ガイドでツアーを組むのが一般的だ。
即席の遠征隊結成
私はマナリ‑レヒ・ハイウェイを自転車で走り、休息が必要になったときに目にした広告に惹かれた。店主は電話一本で「明日出発の3名組、ガイド・料理人・装備は全て提供、料金は安い」 と答えた。私はネパールでのトレッキング経験と自転車旅だけを伝えると、軽く承諾された。大きすぎるプラスチックブーツと自前の寝袋だけで、他の装備は何も言及されなかった。
翌朝8時、ミニバスが到着し、心理学を学ぶイギリス人のラリーと合流した。残りの二人は現れず、実際に存在したかは不明だった。荷物は屋根に積まれ、出発直前にラリーが「サングラスはどこで買える?」と尋ね、販売したビジネスマンが自分のサングラスを渡した。
高度順応と装備の甘さ
レヒは標高3,500メートルで、平地から来た人は頭痛や吐き気を訴えることが多い。理想は1日300メートル程度の上昇だが、我々のスケジュールは1日で1,000メートル上げ、次の夜に6,150メートルへ、最終日は5,000メートルに戻るという過激なものだった。私は自転車旅である程度順応していたが、ラリーは3日前にレヒに到着したばかりで、まだ高山病の兆候が出ていた。
装備チェックと出発
ベースキャンプに到着した頃、オツァルが30回以上ストック・カングリに登り、K2に1回挑戦したと自称したが、実際はテニスシューズで登ると言う。私のプラスチックブーツと古いクランポンはオツァルにとって扱いが難しく、彼は自分の靴にクランポンを装着できないまま出発を宣言した。ジミーは懐中電灯を持っていなかったし、ラリーは手袋すら持っていなかった。結局、全員が不十分な装備で夜明け前に出発した。
闇夜の登攀とトラブル
真夜中に出発し、星空と天の川が頭上に広がる中、シェールの尾根を登った。ラリーは途中で体調を崩し、休憩を頻繁に要求。ジミーは滑って小さな転落をしたが怪我はなかった。氷河に到達すると、オツァルはラリーのクランポンを結びつけようと格闘し、ジミーはスイスアーミーナイフで調整を試みたが、左足のクランポンは紐で止めたまま破れ、結局片足だけでの登攀となった。
ラリーは視界がカラフルに霞むほど体調が悪化し、ジミーは彼を下山させようとしたが、ジミー自身も道に迷い、間違った谷を下っては再び上がるという苦闘を強いられた。結局、オツァルと私は無事に山頂に到達し、朝9時頃にベースキャンプへ戻った。
下山後の結末と考察
下山したラリーはチーテントで眠り、目覚めたときは体調は回復したものの、ガイドと旅行会社に対して激しい不満を抱いていた。私は彼と長時間話し合い、二人のガイドは生活のために最低限の装備と経験で仕事をしていること、そして本来「簡単」な山でも適切な準備が必要だと伝えた。自分は誰にも怒りを向けず、むしろこのような偶然のスラップスティックな冒険がまだ世界に残っていることに感謝した。




