東北の山伏と四国巡礼に見るシンクレティズムと修験道の探求
修験道とは
日本の宗教といえば神社を中心とした神道と、寺院で行われる仏教が思い浮かびます。神道は縄文時代(紀元前14,000〜300年)から続くアニミズム的な自然崇拝が根底にあり、仏教は6世紀に朝鮮経由で中国から伝わりました。
しかし実際の歴史はもっと複雑です。仏教が根付く一方で神道も変容し続け、明治1868年の神仏分離令が出るまで何世紀にもわたって相互に影響し合ってきました。
この融合の中から生まれたのが修験道です。神道・仏教・道教・アニミズム・シャーマニズムが混ざり合ったシンクレティックな修行体系で、山岳を聖域とし、山伏(しゅげんじゃ)や山伏(やまぶし)と呼ばれる修行者が白衣や黄衣を身にまとい、貝の鳴らし声で山林に呼びかけながら厳しい修行に挑みます。
修験道の起源と展開
修験道の起源は、皇子・八子(はちこ)王子(542〜641年)にさかのぼります。父・崇峻天皇(在位 587‑592)が暗殺された後、八子は出羽国(現在の山形県)へ逃れ、鶴岡で穀物を持ち込み歓迎されました。その後、疫病の流行で羽黒山に隠れ、100日間祈祷した結果、羽黒権現(大日如来の化身)から浄化の炎を授かり、病は治癒しました。この功績により「如上(のじょう)仙」と称されました。
如上仙は羽黒・湯殿・月山の三山(出羽三山)に社殿を建立し、弟子の円行(えんのぎょうじゃ、654〜約700年)がこれらの教えを体系化して修験道と名付け、奈良・和歌山・四国へ広めました。
13世紀になると、修験道は「拝所」や「宿場」からなるネットワークを形成し、自然の中で懺悔や再生を求める多様な巡礼者が集う場となります。

東京・高尾山の天狗像。
山伏は地域と様々な関係を築きました。薬草や民間療法の知識で重宝される一方、崖を自由に駆け上がる姿から天狗とみなされることもありました。
現在では、フルタイムで僧侶やガイドを務める山伏もいれば、季節ごとの修行に参加する一般の人々も増えています。

山形県・羽黒山の原生林と古代遺構。
出羽三山巡礼
山形の出羽三山は今も人気の巡礼地です。75歳の山伏・星野文弘(しょぶん)が率いる大聖坊などの本山は、松尾芭蕉や弁慶の足跡をたどる巡礼者を迎え入れています。
初心者向けのリトリートは、夏の3日間で山々を巡り、死と再生を体験します。新型コロナ禍の影響で参加人数は6名に制限され、沈黙が守られ、返事は「受けたもう」(受け入れました)だけです。
白衣(しろしょうぞく)を身にまとい、法冠(ほうかん)で再生を象徴し、数珠や足袋を装着して、羽黒の2,446段の石段、湯殿の岩道、夜間の山行、火渡り、滝行(滝行)や南蛮伊布式(nanban-ibushi)などの儀式をこなします。

伝統的な白衣を着た山伏。
羽黒山は現世、月山は霊界、湯殿は再生を表し、すべてを経験すると歓喜が訪れます。正式な山伏になるには、秋の「秋の峰」週間で半振り(はふり)位、冬の100日間「冬の峰」儀式で松の聖(まつのひじり)位を取得し、星野師匠は60歳でこの段階を完了しました。

山伏の必須修行・滝行。

四国遍路は仏教の代表的巡礼路のひとつ。
四国遍路の本当の起源
四国の全長約1,200kmの遍路は、空海(774〜835)創始の真言宗の88寺を巡りますが、実は修験道の影響が大きいのです。円行の弟子・円行者(えんのぎょうじゃ)が685年に石鎚山(遍路第64番)を聖地化しました。
中世の僧侶(聖)や13〜14世紀の山伏が寺院の整備や観光インフラを築き、土を分け合う代理巡礼者(土代巡礼)などの制度を作り上げました。

7世紀から山伏が崇拝する石鎚山。
現在、石鎚山は7月に大規模な集会が開かれ、5月〜10月は「山伏体験」プログラムが開催されています。体験は人生の道を選ぶきっかけになることもあります。

遍路第88番・大黒寺(奥波志寺)。




